醤油物語5 ひしおのつかさ
中国で作られた醤油のもとが日本に伝わる前、縄文時代末期には稲作の本格化と同時に魚醤が作られたと考えられています。やがて穀類を原料にする穀醤が海の向こうから伝わります(高麗醤こまびしお・唐醤からびしお)。7世紀後半の遺跡から発見された木簡に「醤」の文字が記され「ひしほ」と読まれていました。757年の養老令によると大膳職(だいぜんしょく:料理場)で醤が作られます。主醤(ひしおのつかさ)という役職が置かれました。平安時代になると大膳職の別院として醤院が作られます。ここで「供御醤(くごびしお)」「雑給醤(くさぐさのたまいびしお)」「添醤(そえびしお)」「滓醤(かすびしお)」「醤滓(ひしおかす)」が作られました。滓醤と醤滓は液状の調味料を絞り出した残りと思われ、それ自体も調味料やおかずとして使われました。しかし、公家や朝廷を守っていた武士が争乱を起こし、京の治安が悪化すると醤作りは衰退していきました
No.1728
3月19日調理の肉野菜炒め
1573 days until the end of the first phase
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